摩多利神社

 熊谷市妻沼地区の2自治会(池の上、登戸)が護持している摩多利神社は、なんとも不可解な神社です。護持している自治会の一人でありながら、その創建や護持されてきた経緯など残されている文書類はきわめて少なく、調査不足の状態ですが、まとめてみました。

 

妻沼聖天山の北西約600メートル先の古墳といわれている小山の上に建っています。旧妻沼町誌(昭和3年発行の復刻版)には、「摩多利堂」とあり、「本堂は歓喜院持にして大塚に在り樹木鬱蒼として古色を存す疫病除の尊天として、諸人の信仰甚だ厚し」と記されています。

 一応神社ですが、祭典は宮司さんではなく、お寺の住職さんが執り行います。神仏習合した時代のまま受け継がれてきたのです。また、現在でも、神社は歓喜院の管理になっています。

摩多利神の彫像及び画像は、面六臂の恐ろしい姿です。聖天山歓喜院鈴木院主のご説明は、もとはインドのヒンドウー教の神マハーカーラ。マハーは「大いなる」カーラは「黒、暗黒」を意味し、世界を破壊するときに恐ろしい黒い姿で現れる。仏教に取り込まれて大黒天と呼ばれ、更に神話の神様大国主命となる変化の神様ですと。

小さい尊像なので、怖い形相が、伝わりません。

向拝虹梁外側
向拝虹梁外側

創建は不詳で、旧妻沼町誌では、本尊 摩多利尊天 本殿間口2間 奥行2間 境内514坪とあります。

 現社殿の整備を裏付けるものとして、向拝虹梁(ごはいこうりょう 拝殿上部)の内側に刻まれた銘が、「手計住彫工 正信」と読みと取れます。大我井神社の調べをしていた際に、拝殿に置かれている太鼓器台に「手計彫工鶴松斎正信 弘化2乙巳春3」と刻まれた銘を確認。(弘化2年は1845年)同一人物と思われることから、1800年代に造られたことが推測できます。

向拝虹梁内側
向拝虹梁内側

 聖天山の貴惣門が嘉永4年(1851)に造られていますから、当時の地域の人たちの篤い信仰心が伺えるものの、負担も大きかったのではないでしょうか。

 現在の社殿は、各所に破損が進み、改修の必要性が明らかな状態ですが、文化財の指定を受けていない寺社の保存整備は、なかなか難しいところがあります。このまま朽ち果てるの待つのは残念です。

秋祭り
秋祭り

年間祭事

春の祭りが424日、秋の祭りが1024日に行われます。

祭り当日の朝6時から境内の清掃を地区民で行い、午前9時から歓喜院御住職を招き祭事を役員で執り行います。概ね1時間半ほどで終わります。

何時頃まで行えわれていたのか分かりませんが、「太々神楽」を奉納した記録や、戦前まで芝居小屋が立ったという話は聞きます。

太々神楽が盛大に催された記録に、関心が惹きつけれます。このことは、後述します。

御仮屋
御仮屋

  全国各地の夏祭りは、盂蘭盆会()、七夕、祇園祭などにからんだものやその周辺的な行事です。特に京都八坂神社の祭り(祇園祭り)は、全国各地に広がりました。私の子供の頃は、夏祭りを「祇園」と言い、神輿を「てんのうさま」が来たよ、などと叫んでいました。てんのうさまは「牛頭天王」のことで、八坂神社の祭神。神仏習合した神様です。夏祭りといえば、祇園祭で、てんのうさまを担ぐことだったのでしょう。

 ところが、知らずにワッショイ、ワッショイと担いでいた御輿の祭神は、私たちのところは、「摩多利尊天」でした。

 7月の第2土、日が祭礼日になっています。これは最近のことと思われますが、妻沼地区全体の夏祭り日程に沿って、現在は日程が決められています。